ようこそ、成長編へ

このページは信仰理解を深めたい方のためのページです。

これまでにない角度から聖書信仰を考察していきます。最初のテーマは「福音の原点」です。みなさんはキリスト教の福音に欠かすことのできない中心的な言葉・単語としてどのようなものを思い浮かべるでしょうか。自分なりの言葉をまず考えてみて下さい。

Ⅰ 福音の原点 「悔い改めの福音」

キリスト教信仰の中心的な言葉の中には、イエス・キリスト、十字架のあがない、復活、罪の赦し、神の無償の愛などの言葉を思い浮かべる人も少なくないと思いますが、福音理解の最重要語のひとつとして「悔い改め」という言葉を認識している方はどれだけいるでしょうか。今回の福音の原点シリーズでまず取り上げたいのが悔い改めの福音です。そもそも悔い改めが福音だという理解すら、多くの方はお持ちではないかもしれません。しかし、悔い改めの福音理解こそ、現代の多くのキリスト教会とクリスチャンが再認識する必要のある福音理解ではないかと思っています。これから数々の聖書の根拠をもとにご一緒に確認していきましょう。

 

1.「悔い改めて、福音を信ぜよ」

 この言葉は当時バプテスマのヨハネもイエス・キリストも、すべての人に向けて語られた宣教の中心メッセージです。すでにクリスチャンになっている方の中には、この言葉が自分にも向けて語られていることを自覚せず、未信者に向けて語られているものとして受け止める方もあるのではないかと思いますが、そうではありません。むしろ、熟練したクリスチャンになれば、なるほど、その人にさらに悔い改めと福音を信じることを導く御言葉なのです。

 

イエスの時代に語られたこの御言葉を聞いていた人々は確かに当初はクリスチャンではありませんでした。しかし、そこにいた人々は聖書の神を信じていた人々がほとんどでした。ユダヤ人たちに宣教したのですから。しかも、その聴衆の中には律法学者やパリサイ人といった、聖書信仰についての専門家たち、宗教指導者たちも大勢いたのです。その彼らに向かってバプテスマのヨハネはマムシの子ら(つまり悪魔の子ら)と挑発し、そのままでいてはいけないこと、信心深い彼らに悔い改めと福音を信じることとが不可欠であることを訴えました。

 

熟練したクリスチャンは悔い改めることがどれだけ大変かを知っていると共に、悔い改めること自体が自分にとってさらに信仰を深め、豊かにする福音の一部であることを知っています。そして、福音を信じるということも生涯をかけて実践していくものであることを理解している人であり、信じることとは、与えられた福音を実践し、福音に生きることであることを知っている人です。従って、御言葉に徹底して生きる人こそ、福音を信じる人なのです。悔い改めることも、福音を信じることも、共に生涯をかけ、命をかけて実践していくようにすべての人に向けられた神の御言葉なのです。

 

キリスト教信仰とは、この悔い改めと福音を信じ、実行することと言っても過言ではありません。悔い改めることの中身を理解し、実践していくことと、信じるべき福音の中身を理解し、実践していくこと。この両者がバランスよくなされていく時に、クリスチャン信仰は豊かにされていきます。あなたのこれまでの人生において、バプテスマのヨハネが、そしてイエス・キリストが共通に宣教したこの言葉に、どれほどの重きが置かれて来たでしょうか。もう一度、受けとめ直してもいい言葉ではないでしょうか。ご一緒にこの御言葉の豊かさ、奥深さに預かっていきましょう。

 

2.「悔い改め」こそ目的だった!

バプテスマのヨハネもイエス・キリストも弟子たちも、共に悔い改めを目的として人々に宣教していたことが次の福音書でもわかります。

 

マタイ3章11節「 わたしは、悔い改に導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。」バプテスマのヨハネ

 

マルコ6章12節 「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。」十二弟子

 

ルカ5章32節「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」イエス・キリスト

 

このように、「悔い改め」はキリスト教信仰における補助的な内容ではなく、中心的な教理であり、これなくして真の福音理解や救いはないとさえ言える重要なものであることがわかります。従って、悔い改めが含まれない福音宣教とは本来考えられないのです。しかしながら、今日の教会において、悔い改めという言葉はどれほどの重きが置かれているのでしょうか。あなたの教会では、悔い改めという言葉は頻繁に耳にする言葉でしょうか。そして、正しい用い方がなされているでしょうか。

 

3.悔い改めのバプテスマ

そもそも、イエス・キリストは何故バプテスマを受けられたのか。疑問に思った方も少なくないのではないでしょうか。「それは私たちの模範のため」という見方も確かにあるでしょう。しかし、バプテスマは罪の赦しを受けるために行うものだとの理解が存在します。そのため、罪を悔い改めた人がバプテスマを受けるということが前提にバプテスマを受けるという理解をされる人も多いのではないかと思います。もし、そうだとすると、人類史上ただおひとり罪を犯されたことのないお方が、バプテスマを受ける前に罪を告白し、罪を悔い改めて、罪の赦しを求めてバプテスマを受けるというのは少しおかしいのではないかと思われる方がいても当然です。

 

これは悔い改めのバプテスマの意味について上記のような考え方により、誤解が生じたために起きる矛盾だと考えています。バプテスマのヨハネは確かに(人類にとって)罪の赦しを得させる(ことになるところの)悔い改めのバプテスマを授けていました。しかし、「悔い改め」という言葉自体は、罪に限定した悔い改めを指す言葉ではありません。悔い改めの意味は「方向転換」、または「本来あるべき場所に立ち返る」という意味です。イエスはこのような意味での悔い改めのバプテスマを受けられたのです。それまでは、一家の大黒柱として大工の仕事をしながら、家族を支え、地域に貢献していたと考えられています。そのイエスが本来の使命のために人生における大きな方向転換をするにあたって、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けたというわけです。

 

聖書が一貫して主張している真理とは、人は一人では生きていけない。神との正しい関係の外にいては生きられないということ。そして、人は同時に他のクリスチャン仲間に祈られ、互いに支えあい、成長し合うようにはじめから創造されているということ。イエスがいよいよ本来の使命を果たすべき時期が到来した時に、必要不可欠とされたのが、自分のいとこでもあり、よき理解者でもあるバプテスマのヨハネとその仲間から祈られて、福音宣教の使命を開始するということだったのではないでしょうか。イエスは確かに神の子でした。しかし、祈られ、弟子たちの協力を受けることなしには自分の使命を最後まで達成できないことをわきまえておられたのです。バプテスマもその後の福音宣教も、ご自分の力だけで達成しようとはなさりませんでした。

 

悔い改めのバプテスマには以上のような理由から、神に導かれた教会員に祈られて、本来あるべき神の家族の一員の中で信仰生活を歩み始めるという大切な意味が含まれています。本来あるべき神との関係、本来あるべき場所に立ち返ること、それはキリストが命を犠牲にしてまで、あがないとって下さったキリストの体なる教会の中に迎え入れられて、本格的に神の御心と、神が与えて下さる使命に祈られながら生きるということを意味するのです。悔い改めとは単に個人的な罪の懺悔のことではなく、神の家族の祈りと協力の中で罪深いそれまでの生き方を克服しつつ、神の使命に生きるための決定的な方向転換をすることを意味するのです。イエス・キリストはそのような意味での悔い改めのバプテスマを身をもって模範を示して下さったのではないでしょうか。

 

4.悔い改めがもたらす天の喜び

悔い改めることは、単に私たちの側の問題ではありません。誰かが正しく悔い改めることは天における重大事件であることが以下の箇所に述べられています。

 

ルカ福音書15章7節・10節

言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

「 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

 

このように、この世におけるただ一人の人間の悔い改めであっても、神の世界においてはかけがえのない価値のある出来事であり、天における大きな喜びのもとなのです。従って、悔い改めについて伝道すること、悔い改めを導くことはこのような意味でも極めて大切なことであり、神に喜ばれることであることがわかります。

 

5.世界最初のキリスト教説教

使徒言行録
 2:38 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。

 

新約聖書の記録に基づき、世界最初のキリスト教説教をしたのは十二弟子の一人ペトロによるものでした。ペンテコステ、つまり聖霊降臨日または初代教会設立記念日とも言われる日にペテロが行った説教です。その結論部分でペトロは「悔い改めなさい」と勧めています。これは聖書の神に背いたことのあるすべての人に向けられた言葉です。これは軽い罪ではありません。神の敵になるということに他なりません。この世に生を受け、自分の意志で神に従うかどうかを決断できるに至った人は例外なく、神の前で自分の反逆の罪を悔い改める以外に、罪の呪いから救われる道はないのです。私たちが神の御前で犯すすべての罪(実際に犯す罪も心の内面で犯す罪)は自動的に消滅することはありません。すべては霊の世界において暴露されることになっています。キリストの罪の赦しと清めの血によるあがないなしには、神の聖なる光の前で、生前に形成し続けて来た自分の魂いの罪深い姿に耐えられる人は一人もいないことでしょう。悔い改める勇気、謙虚さを私たちが唯一の救い主キリストの前で持つことができるかどうか、それが私たちの将来の方向を決定づけてしまいます。

 従って、悔い改めることはこの世に生を受けたすべての人が真剣に受け止めなければならない人生の避けて通れない最重要課題だと聖書は明確に教えているのです。

 

6.神の言葉に秘められた力

ヘブルの信徒への手紙
 4:12 というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。

 

神の言葉は愛に溢れた言葉であることには違いありません。しかし、その愛の力は単に私たちを励ますだけでなく、私たちを悔い改めに導く言葉に満ちています。上記の御言葉が示す通り、神の言葉は生きた力あるものです。時には本当の自分を丸裸にして行きます。また、私たちが神に明け渡していない自己中心的な領域を明らかにします。神の言葉はまるで暗い洞窟から光のもとへ出て来た薄汚れた人のように、自分がどれだけ汚れていたのかを明らかにします。神に喜ばれ、受け入れられ、用いられる器になるには自分がどれだけ不足している人間であるかということが時にはいやというほど明確に示されます。健全に霊的成長を遂げていくクリスチャンは度々聖書通読を通して、励ましだけでなく、自分の罪深さを示され、悔い改めへと導かれます。本当の愛というのは、その人のいいところだけを評価することではなく、その人が神に背いて犯し続けている罪があれば、それを節度を持って指摘し、悔い改めへと導くものではないでしょうか。神の言葉にはそのような側面もあるということを知って下さい。

 従って、正しい心で聖書通読や礼拝メッセージに耳を傾ける時、心が平安よりも不安を感じる機会に遭遇します。それはあなたの内に働く聖霊により、悔い改めが導かれている証拠なのです。平安をいただくために聖書の御言葉を聞こうとしたのに、返って心の平安が奪われることが起きます。どうか、そのような時こそ神の御前に謙り、示される罪や弱さ、神に明け渡していない信仰の領域や手放していない悪い習慣を主イエス・キリストに告白して下さい。かなり頑固で克服しにくいものである場合には、牧師や信頼できるクリスチャン仲間に一緒に祈ってもらう必要がある場合もあります。悔い改めのバプテスマの箇所で述べた通り、イエス・キリストも仲間の祈りを必要としました。あなたも例外ではありません。

 

ローマの信徒への手紙

 2:4 あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。

 

使徒言行録

26:20 ダマスコにいる人々を初めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行いをするようにと伝えました。


 悔い改めこそ、あなたをさらなる成熟と信仰の深みへと導くものなのです。